現代科学で般若心経を分析2(スマートフォン対応)         
 「宇宙と量子と般若心経2」

                                                                            

  智慧とこころの経『般若心経』は
    宇宙・時間・空間・素粒子を説いている



「現代科学で般若心経を分析」のつづき

輪廻転生


では『輪廻転生』は、あるのだろうか。幼児の数人のなかの一人は母体のなかでのことや、前世のことを覚えている子がいるという。
 
2002年アメリカのルイジアナ州ラファイエットというところの、ライニンガー家のジェームスという、幼児の二歳から四歳に掛けての出来事。

 その幼児は、六十年前に実在したた同じ名前のジェームス・ヒューストンの生まれ変わ
 護衛空母ナトマベイ  りということである。
 そのジェームス・ヒューストンは、アメリカ太平洋艦隊の護衛空母ナトマベイのコルセアと云う戦闘機
のパイロットで、世界二次大戦の時、硫黄島作戦において日本軍に撃たれ、炎上墜し、戦死したとのことであった。
 つまり、幼児のジェームス・ライニンガーは、六十年前に戦死したジェームス・ヒューストンの記憶を持っていたといことである。しかし、このような記憶が維持できるのは4・5歳くらいまでで、以後、記憶は薄れ小学校を上がる頃にはすっかり忘れ去るという。

前世の記憶を持つ幼児(You Tubu「ザ!仰天ニュース」)

 三大仏教(大乗仏教・上座部仏教・チベット密教)の一つ、インドのダラムサラへ亡命中の、密教の中心人物であるチベットの法王ダライラマ十四世も、ご本人の講演や著書「ダライラマ自伝」によれば、代々、ダライラマの生まれ変わりをチベット中から探し出して、ダライラマを継ぐと云うことである。
 
釋尊の経典にも、釋尊の前世の話を『本生譚』といって、兎や鹿王とか長者・雪山童子などの前世の話がありますが、「三世縁起の法」といって前世の因縁の結果現世に生まれ、現世の行いの結果来世に生まれるのである。その中の一つの話で、釋尊がマガタ国の王子時代のある日の農耕祭での出来事の話。
釋尊であるシッタルダ王子は、農耕祭を見ながら木陰で眠ってしまった夢でのことである。
「王子はジブと云う小鳥の家族の三十二番目の雛として生まれ、兄弟の雛のなかでも一番丈夫で、母鳥の胸毛の下の特等席で暖かく育てられ、十日もすると飛ぶ練習をさせられました。練習の足りない弟や妹たちは、蛇や梟・鷹などの餌食となり、その光景ははっきりと覚えています。飛んでみて初めて分かったことは、私の家は大きな木の下から二番目の枝にありました。
私達はいつも仲間といっしょに飛び常に敵を警戒し、食べ物を捜す生活で、自然の厳しさに、次々と仲間が死んでゆきました。
それでも私は、メスを見つけ結婚し雛を育てました。そんなある日、農耕祭で、耕された畠のなかに虫を見つけ私は舞い降りました。
するといきなり背後より、私達小鳥を狙っていた
が、太い大きな爪で私を摑み、私の内臓が潰される音を聴きながら、これで死ぬんだとはっきりと思った時に眼を覚ました」(手塚治虫『ブッダ』)ということである。
 筆者も似たような夢を見たことがあります。それは、平成七年七月のある明け方のこと、小生は土の中から這い出て、ふと見上げると、これまで見たことがないような、巨大な木が目の前に聳え立ってい
る。すごく大きな木だと思いながら一所懸命に黒く聳え立つ木を眺めていると、木のてっぺんから、黒い陰が、風に乗るように、フワッと離れた。何だろうと更に一所懸命みていると、その黒い陰がどんどん大きくなってくるのである。気がついたときには、その黒い陰は大きな二つの翼で覆ってくる。
あっと思い首をすくめたが已に遅くその黒い陰に包まれ息が出来なくなって眼を覚ましたのである。余りにもリアルな夢で何だろうと考え、その時は、大きな木は松で、黒い陰は鶴であり、縁起のよい夢なのだと、自分を誤魔化したことを覚えている。しかし、今でもそのシーンをはっきり覚えており、今では、過去世の何処かの自分の生であり、死の一瞬であると自覚している。

 
人間が生じるとき、母体に於いて、地球に生命が生まれたときと同様に、アメーバなどの単細胞から人間までの進化の過程を全て胎内で現わすという。男性の白いと女性の赤い雫が、つまり、水と火が融合し、小さな単細胞が生じ、そのから鼓動が始まると云う。
七日目には、細胞が二つに分裂し、以後、七日毎に(かたち)を変えていくことが、近年の医療機器の発達により胎児の発達過程が、エコー検査によって七日毎に変化することが判り、十月十日ではなく、妊娠過程を、第何週と言うように週で表すようになったのである。

 胎児が生じたということは、前世を終えて今世に来たのであって、今世で亡くなれば、来世で生まれるのであり、故に、亡くなった(とき)の初七日、二七日、三七日、七七四十九日、百箇日…と云うのも、胎児の成長と同じである。
 この妊娠期間の胎児の成長を現代では、齢として数えなくなったから、水子を簡単に堕ろす風潮となってしまったのである。


 一切皆苦

われわれは人間(じんかん)と云って、人と人の間を彷徨って惑うから人間(にんげん)と云うのであるが、釋尊は人間世界を「一切皆苦」と説いている。

故に釋尊は「一切皆苦」から解脱する為に、世間の誰もが望み求める将来は、王と言う最高の名誉・地位・財産を全て捨て出家されたのである。

では、『苦』とは何か。人間は「身」と「心」から成っているが、身から生じる『苦』には四つの苦があると分析され、一つには「(しょう)」で生まれる苦しみと生きて往く苦しみである。生まれる苦しみとは、母親の生みの苦しみは青竹を握り潰すほどの苦しみと云われているが、赤子は、その母親の何十倍もの苦しみを受けると云う。母の羊水に保護されていた世界から、外の空気に触れた瞬間の痛みは、生皮(なまかわ)を剥された跡に荒壁に(こす)られたような痛みを感ずるという。
又、今まで呼吸していなかった肺に
(くう)から息を吹き込まれ、いきなり肺がふくらむのであり、内臓を焼くほどの痛みを受けると云う。
故に前世のことや胎内でのことを全て忘れると説かれている。
これが佛の慈悲であるといい、前世のことを全て覚えていたら新しい世界では生きていくことができないということが『父母恩重経』に説かれている。
二つには、「老」であり、年と共に衰え苦しむことである。
三つには、「病」で、
何人(なんびと)も病に(かか)り苦しむこと。その病気は四百四病(しひゃくしびょ)と云って、医療技術がいくら進んでも常に新しい病気が生じ、減ることがない。
四つには、「死」であり、誰も避けて通ることの出来ない必ず訪れる死への苦しみがある。

 次に心で感ずる苦しみにも四つあり、一つには、「愛別離苦」で愛する親との別れ、愛する子供との別れが必ず有り、二つには「怨憎会苦(おんぞうえく)」で、怨んだり憎むものとも会わなければならぬ苦しみがあり、 三つには「求不得苦(ぐふとっく)」で、求めても求めても手に入らない苦しみがある。四つには「五陰盛苦(ごおんじょうく)」で、五感が原因で起こる苦しみである。
例えば見なくてもいいものを見たために苦しみ、聞かなくていいものを聞き、又苦しみ、云わなくていい事を云って苦しむといったことである。

以上の如く身で四つ、心で四つあり、合わせてこれを「四苦八苦」というのであるが、これらの『苦』を総て克服する方法を見出されたのが釋尊である。
その方法は、後述する『六波羅蜜行』『十二因縁』とか『四諦八正道』とが説かれている。
般若心経とは

さて、宇宙には、大きく分ければ、多次元の世界と三次元の世界の二つがあることは理解できたと思う。前者は真実不変の悟りの世界で物理学で言えば量子の世界のことであり、後者は、我々のマクロの世界のことである。
仮の世界で常に変化する迷いの世界である。ということを念頭において愈々『般若心経』の解説に入って往きたいと思います。
『般若心経』の元は、云うまでもなく釋尊が説かれた『一切経』、つまり
『六大経典』のなかの一つである六百巻からなる『般若経』で、般若波羅蜜(智慧の完成)を説いた経典である。構成は『大品般若経』『小品(道行)般若経』『金剛般若経』『文殊般若経』『実相般若経』などがあり、これらを集大成したものが六百巻からなる玄奘三蔵訳の『大般若経』である。
この『大般若経』からエキスだけ「二百六十二字」を選び摂ったのが
『般若心経』であり、内容は『大般若経』から『心』の部分を抜き摂ったものである。
『般若心経』は当に「こころとは何ぞや」を説いているのである。釋尊の説かれた一番深い、且つ難解な「佛の智慧」の内容なのである。
『真理』そのものなのである。


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『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』
 仏説とは、『佛』つまり『釋迦牟尼佛』が説かれたものであることの証明である。釋尊は、一つの経典も自身では書き残していないのである。
釋尊は、出家後、六年間の苦行を行い、生きたまま死臭がしたというほどまで、過去にも未来にも誰も成し得なかった難行をされた。これ以上続ければ命を亡くすと云うギリギリまで行を実践されたが、それでも『覚り』に至ることができず、「難行苦行では『覚り』は得られない」と、とうとう苦行をも捨てられたのである。
 尼連禅河(にれんぜんが)にて沐浴(もくよく)を終え、河から岸へ上がろうとするが長年の苦行で体力は尽き、上がることができないでいると、(たまたま)、この村の村長の娘であるスジャータが通りすがり、神々(こうごう)しくひかる釋尊を拝して、持っていた乳粥を釋尊に布施をされたのである。その乳粥に由って元気を取り戻し、今迄の自分を振り返り、人間の未熟さを覚ったのである。
そして、菩提樹下に於いて禅定に入り『覚りを
獲得(ぎゃくとく)』されたのである。
「難行苦行は自我・我執であり、自己満足に他ならぬではないか」と気が付き、
を捨て、全てをに任せたのである。
すると、すぐ目の前にある多次元の世界、つまり、量子の世界が観えてきたのである。

 この(とき)の釋尊のこころの状態は様々な経典にありますが、同じ覚りを獲得された道元禅師が、そのまま解り易く、素直にかかれたがありますので、紹介しましょう。

  「ただわが身をも心をもはなちわすれて
  佛のいえになげいれて
  佛のかたよりおこなはれて

  これにしたがいもてゆくとき
  ちからをもいれず
  こころもつひやさずして

  生死をはなれ佛となる
  たれの人かこころにとどこほるべき
  仏と成るに いと易き道あり」

これが釋尊の説かれた『無量壽経巻上』にある弥陀の四十八願の王本願である『一念帰命』のこころである。
この菩提樹下にて、三十五歳の暁の明星耀くとき、釋尊は悟り(多次元の世界)を開かれたのである。大悟された後、五七(ごしち)の三十五日の間、多次元の世界を感知され歓喜踊躍(かんきゆやく)されたのである。そして、ご自分の目的(釋尊出世本懐)が達成されたので、この素晴らしい多次元の世界へ往こうとされたとき、天界から梵天が降りてきて、釋尊に
「この多次元の世界のことと、その往き方を三次元世界の我々人間に説いて頂きたい。」
とお願いしたのである。
しかし、釈尊は悟りの内容、つまり、
「宇宙の真理はあまりにも高度で、更に高邁で難解な教えである。人々には理解できないだろうから説くのは難しい」
と断られた。しかし、梵天は不惜身命の思いで「幾ら高邁で難解な教えであっても、一人でも理解できる者が現れれば善いではありませんか」と懇願したのである。これが世に知られた『梵天勧請』である。

すると、釋尊は
「いま甘露の門は開かれた。耳あるものは聞け、古き信を去れ、梵天よ、私は効なきを思い『微妙(みみょう)の法』を説こうとはしなかった……。」
と、全ての世界の生類のために獅子吼されたのである。
サルナートの初転法輪に始まり、八十歳でクシナガラにて入滅するまでの四十五年間に説かれた御説法は膨大であり、また、釋尊の御説法は、待機説法と云って、聴く人の能力・経験に応じて御説法されているので更に膨大な量になり、後に内容が間違いないように御説法をよく見聞きし、解り、そして一字一句忘れない、覚りを開いた五百名の弟子たちによって『結集(けつじゅう)』が行われ、五百名の弟子の一人でもそれは聞いてないという部分は除き、四回の結集が行われ完全な経典が出来上がったのである。
故に『仏説』とは、一字一句、釋尊のお言葉で間違いないという証明なのである。

 『摩訶般若』は、摩訶は(おおいなる)で、般若は智慧と解釈するのであります。
此処でいう『智慧』とは、人間の知恵ではなく、佛の『智慧』のことで多
次元での智慧のことです。

ある時釈尊は弟子たちに尋ねた。
「悟りに至る智慧とはどのようなものであろうか。また、覚りに至る真言というものがあるだろうか。あるとすればどのようなものであろうか」と
ここで一つ『般若心経』に入る前に知らねばならぬことがあります。
ここでは、宇宙に於いて多次元の世界と三次元の世界の二つがあるといいましたが、釋尊が説くところによれば、この宇宙を十の世界として『十界』と説かれている。

現代の量子力学や次元で云えば、三次元・四次元・五次元……
多次元ということであります。
0次元とは、点の世界であり、一次元は線の世界で糸の上を歩く蟻のように前後にしか移動出来ない世界であり、二次元は平面の世界であり、次元とは縦軸と横軸で軸の数をいいます。三次元は二次元の平面世界に加えて高さの軸が増え我々が住む立体世界となります。
四次元は三次元の立体に時間が加えられた世界です。
宇宙物理学において次元とは、例えば部屋に敷いてある絨毯は上を歩くだけの平面世界ですが、よく見れば毛が1本1本立っている立体世界である。更に拡大してみれば毛の1本1本が多くの細い繊維で出来ている。更に拡大してみるとその細い繊維は多彩な原子が結びついて出来ている。更に拡大すれば原子は原子核と電子で出来てい
る。更に拡大してゆくと原子核は中性子と陽子で出来ている。また、
中性子や陽子は三つのクォークからできている。更に拡大……。
というようにミクロの世界へ入って視点が変わる度に次元が増すのである。
十界とは、迷いの深さを六段界、即ち、六道に示し、悟りの深さを四段界に示したものである。
つまり、迷いの一番深い境地を地獄と言い、悟りの完成した境地を佛(如来、正覚、応供、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、世尊)と言うのである。次に菩薩とは、大乗佛教徒が目指す等正覚で、身を捨てたのちに佛になる修行者であり、上座部佛教の出家者が目指すのが阿羅漢という縁額・声聞の世界である。

 それ故、十界とは、死後に行く処の世界ではなく、現に今、生きている我々自身の住している境地であるとも言えるのである。

佛教では、『佛界』に上がるには『菩薩界』で修行をしなければならな
いと説かれている。
その修行法は『波羅蜜行』であり、『波羅蜜多』とは、六波羅蜜行を実践し、菩薩がさとりを完成させることで、六波羅蜜とは、涅槃(彼岸・浄土・極楽・佛界・多次元世界)へ至る為に菩薩が実践すべき六種の徳目であり、波羅蜜とは彼岸に至る事。理想を達成する事。完成する事である。
故に『般若波羅蜜』とは、智慧を完成することであり、智慧によって歓びも増えることである。
具体的には、

 ① 布施…財施(衣・食・住・金・銀を施す)
   法施(真理を教える)
   無畏施(むいせ)(恐怖を除き安心を与える)
 ② 持戒…決められた戒律(規則)を守る事
 ③ 忍辱(にんにく)…苦難を耐え忍ぶ事
 ④ 精進…真理の道を弛まず実践実行する事
 ⑤ 禅定…心を(しず)め安定させる事
 ⑥ 智慧…真理の知慧を得、常に心が潤ってい      る事

などを実践することであり、これらを楽しんですることである(苦行に非ず)。
菩薩は、衆生に応じて『抜苦与楽』(大無量壽経)を行じなけれならない、つまり、衆生の苦を取り除き楽をあたえることである。

観自在菩薩行深般若波羅蜜多』とは、
 釈尊の問いに対して、衆生の苦を取り除き楽を与えてきた観自在菩薩がいうには
「お釈迦様に代わって私がお答えしてもよろしいでしょうかと」
釈尊の許可を得て話し始めた。
 世間にある殆どの解説書は、観自在菩薩は観世音菩薩とよく勘違いされてるようですが、観世音菩薩ではありません。しかし、間違いではないですが正確ではありません。観自在菩薩とは菩薩全部のことで観世音菩薩も含まれているのです。しかし、観世音菩薩と限ることが間違いです。観世音菩薩観とは主に情を掌る菩薩であり、観自在菩薩とは相対にある智慧の菩薩であります。
ここでいう観自在菩薩とは、文字通り菩薩は皆観ることが自在ということです。何を観ることが自在かというと前に説明した多次元の世界を観るということです。
清浄光のひかりやエネルギーを佛教では佛と云うのです。釋尊は観自在菩薩を『観無量壽経』の心身観文つまり、佛の身と心を観る方法に於いて『
諸佛現前授記(しょぶつげんぜんじゅき)』と説いています。
「授記とは佛が弟子の未来の成仏について予言すること(広辞苑)」であり、予言とは佛が保証することである。また、受記とは弟子が自身の未来の成仏について佛から予言されることである。つまり、
(もろもろ)の佛が眼前に顕れる人は、言い換えれば諸佛を自在に観ることができる人は、多次元の世界を観られる人は、必ず多次元の世界に行き、ひかり(佛)となれるということである。
 この『諸佛現前授記』の六字のために、昭和六十二年七月、天台宗の酒井雄哉(ゆうさい)師は、最も、難行とされる二百五十の持戒の中「千日回峰行」の二度目を成功され、合計二千日を見事達成し大阿闍梨となられたが、『諸佛現前』とはならなかった。はっきりと「佛は見ることができませんでした」とマスコミに仰せである。
 釋尊でさえ連続2190日の苦行をされたが、達成されずに菩提樹下に於いて『受記』されたのである。
これは死んでから『受記』されるのではありません。一休禅師もお歌に詠んでいます。

 引導は 無事なるときに  受けたまへ
  末期の  たびに  おもむかぬうち

 此処ではっきりさせておくことは、死んでから(身を捨てたのちに)成れるのは、佛(清浄光)であり、つまり、量子の世界であり、それには生きてるうちに成らなければならないのは、菩薩(観自在菩薩・受記)ということである。

釋尊のように涅槃(彼岸・入滅・成佛)に入るためには、人間界に於て菩薩となり、菩薩行を行じなければならぬと言う事である。
 次に…

            
        
つづく





   
 


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2016/11/18~